昭和51年04月30日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
まだ信心の薄い人に対して、色々な悩みとか鬱憤とかと言った様なものを取次がれる、取次ぎます場合、まぁ是とよく似た様なお取次ぎをさせて頂く事があります。誰が何というても、神様だけがご承知の世界に住む事。ご承知の世界に生き抜く事が信心だから。まぁしっかり信心をなさいという風にまぁ申します。まぁ私はこの御理解は今日はそんな風に感ずるですね。
本当の事をいうたらそりゃ人が言うとる、言うとる通りですよと。火の気のない所には、煙りはこんというのだから、あそこはあんたがちゃんと改まっていかにゃ。というのが本当だけれどもそう言うたんでは、言うならば無理、かえって無理がいく。まぁ慰めるようにしてね、まぁしっかり信心の帯をしてしっかり信心して、人が何と言おうがまぁそこ辛抱していきなさい。神様全部見てござるのだから。そう言う様な私はこうお取次ぎのまぁ教祖様もそう言う様な。
お取次ぎをなさったのではなかろうか。そりゃようと自分の胸に手を当ててごらんて、人が泥棒といわれる時には本当に自分の心の中に泥棒が巣くってるよ。人が乞食というなら、本当にあんたの心に乞食根性がないかどうかようと見てご覧。それこそ汚い汚い乞食根性もってるよ。まだそこいっちょ改まらにゃという風に、が本当なんだけれども、そういわれたんでは余りにひどい。これそういう意味合いでなら、私はここで皆さんのお取次ぎさせて頂く時にそういう場合が沢山ありますですよ。
もうみすみすあんた方が悪かじゃんのと、言いたい様な時があるけれども、あんたが改まってご覧ちゃんとおかげになるが、誰彼さんもおかげになるがと。言う様な事もありますけれどもね。まぁそのその信心の程度程度でお取次ぎさせてもろうて、所謂信心の帯をしっかりさせるというしっかり信心しなさい。しっかりまぁ先日の拝まにゃ通さんとか、ね、改たまらにゃ磨かにゃ通さんと言った様な、難しい事言わずにまぁ拝んだだけでも通してやると、まぁしっかり信心しなさいと。
言う様な私は感じで受けます。昨日私は色々お願いをさせて頂きます、これは本当にこれだけこんなよか信心が出来るのだから、この人ここばいっちょ改まったら本当言う事ないけれども、しかも信心しよってそんな事ではね、人から後ろ指を差されますよと。信心頂いておってそげな事では、それを一つ改まらにゃと言う様な人があります。どうぞ皆さんお話を銘々の事として頂いて下さい。信心頂いておってそう言う事を言うたりしたりしてから、それこそ信心させて頂く者の顔汚し。
又自分でもそれを気付いて改たまらにゃとこう思っておるけれども、これはもう本当にこれは自分の癌のようなもんだ。これを一つ取り除かなければ本当のおかげが受けられん事は分かっておるのだけれども、どうにも出来ない。とまぁ本人はどうにもならないと思っておるか知らんけれども、まぁそう言う様な人がまぁあります。ところがこの人にはですね、いうなら最後の所の、信心の帯をしっかりしてる所があるんです。その信心というてもですね、もう本当にお役に立ちたいという一念を何時も持っておるです。
私は昨日ほどあのほほう、成程お役に立ちたい、立ちたいという一念を燃やすならばです、神様がねそれは信者として許されないと言った様な内容、を持っておる人でもおかげが頂くなと言う事を思いました。お役に立ちたい立ちたいという一念を燃やしておればです。まぁ例えていうとですね、あの私は癌の手術と言った様なものを、見た事がないばってん御心眼でそのこう開復手術をして、癌の手術があってる所を頂くんです。
所がその癌がもういうなら体全体にはびこっておる。だからもうどうにも手がつけようがない。だからまたじっとこうふさいどく。そしてそうしてでも神が使うと言う事を頂いたです。神様の事ですからね。もう私共がこれをいっちょ改まらなければ、こりゃ自分の癌だとこれ改まりゃ徳を受ける、おかげを受ける事は分かっておるけれども、と言う様なそれがね、改まられる事を改められないのは、これは許されませんですね。
もうその人のねもう性根というか、五体というか心全体に、もうはびこっておる、もうそれを取ったら返って命取りと言う様な癌が銘々にあると言う事です。そこん所を今日はね、人が泥棒じゃと言うても、乞食じゃと言うてもと、俺が何時泥棒したか、乞食したかと言う様なじゃなくて、しっかり信心の帯をせよ。教祖様でも実を言うたら、お前泥棒と言われた、乞食じゃと言われたら、実際お前泥棒じゃないかと。
お前は乞食と同じじゃないかと。だからそこを改まらにゃとと言われる、言われずにです、しっかり信心の帯をせよと。神が見ておるとこういう。神様のご承知の世界、ならここで私もそうです、まぁ少し、一つしっかり信心辛抱しなさいと。神様だけがご承知の世界に生き抜く事が信心なんだから。と言う様な場合があります様にです。お互いのいうならば心の状態というものを、自分が例えば痛いとか痒いとか思う時にはね、矢張りそのいたがというものは自分のない、心の中にあるのです。
いうならば自分の心の中を、それこそレントゲンでもかけて、いっちょ見て見ると。と有るは有るは。命取りになる元になる様な、いうならば癌が心の中に巣食っておる。まぁそういう時に私共は、本当に自分にそれを発見したり、感じた時にです本当に私のような人間でも神様がこの様にしてまぁ使うて下さると。本当に神様なればこそと改めて思う事があります。この癌を取りたいと思う。手術を受ける所がもう手の施しようがない程しに、癌がはびこっておる。
もうその人の性根の中にそのいうならば、信心しとってそげな事では許されないと言った様な、なら癌を持っておる人がですね、段々信心の帯をしっかりしていっておる信心はしっかりしておる。拝むこつも拝む。御用もする。そしてその上にです、本当に神様のお喜び頂けれる様なお役に立ちたいという一念をその人が持っておる。唯私だけがおかげ頂きゃよいと思わん。おかげを受けたら、その頂いたおかげをもってです、健康なら健康のおかげをもって、お役に立たい。
財なら財の面を持って、おかげを頂きたい。お役に立ちたい、立ちたいというその、一念を誰よりも大きく広くもっておる。そしたら神様がもうその癌をね、取り除いてやろうと思いよるけれども、取り除きよったらもう、それこそしまえてしまう程しの癌がはびこっとるのだから、それはじっともうそれはそのままにしてです、ただ氏子がお役に立ちたいというその一念の所だけを受け取って、癌が無いものの様にしておかげを下さるという事を昨日頂いて、成程とまぁ合点させられた訳です。
皆さん何十年信心してから、もうこれだけはもうどうも、改まらにゃでけんと思うけれども、改まりが出来ん。神様に嘘ばっかりいうてと。改まりますというておかげを頂き、そして、実際は改まりきっとらん。昨日私ある方のお届けをさせて貰いよったら、その人の頭が小さくて、鼻が曲って歯がこうすいておるその人の姿を頂いたです。神様はもう実にそのなんていうですかね、その厳しいです。その人は私は頭のこまいというか、その人はあんまり頭が良くないです。頭んこまかつそれから鼻も( ? )ちっとばかり( ? )ですその人は。鼻曲っておる。御心眼で。
そして神様に何時も例えばこげな修行しますとか、こげん改まりますとかとお届けはしっかりするばってん、神様にそれば長続きした事がない。嘘ばっかり言うとる。歯がこう、歯のすいたした嘘つきと言った様な事昔からもうしますね。本当に神様はね、こんなに厳しく見ておられるという事を私は思いましたけれども、それでも神様はです、頭の良い者の様に鼻曲りではない様に、正直者の様にして受けておって下さると言う様な事もあります。神様はなかなか寛大です。
今日は皆さんに改まらんでよかと言う事じゃないですよ。本当に泥棒じゃ乞食じゃと言われ、と例えばような時にはです、本当に自分の心の中に、そういうものがある事を分からせてもろうて、それを一つ手術をしてでも取り除かれるものならば、手術をして取り除かしてもろうたらどんなにほっかりするか分からん。けれどもこればっかりはやっぱ、今日の御理解頂いてみると、この癌だけは私のはもう体全身。いうなら心全体に広がっておる癌ではなかろうかと思う節がもしあったら。
その事に例えば本当に改まりますというて、改まりきらんという改めきらんと言う様な嘘を言うよりもですむしろ始めから美しゅう。出来んことは出来んとしてです但し心の中にです、本当に信心の帯だけはしっかりさせて貰おう。お役に立ちたいという一念だけは愈々募らせて行き、燃やして行こうという生きかたに成られたら、今まで心に引っ掛かっておった癌と思うておったその事のおかげでです、神様のまぁご信用を受けると言う様な事も出来ると言う事を今日はまぁ実に変わった御理解を聞いて頂きました。
これは改まればおかげになる事が分かっとるから、その時は本気で改まると、改まろうと思う。例えて言うと、まぁそんな事はなら問題じゃないけれども、お酒ならお酒が、もう何時も自分の周囲の者も迷惑かけるし、お酒だけはいっちょ止めようと思うて、神様にお願いをする。所がならもうそれが、お酒が中毒してしもうておるとしますか。だから確かに一日二日は止めるけれども、もう三日目には飲んで飲んでしもうて、又神様に嘘を言うたと言う様な事がありますよ。
だからそういう繰り返しは何時も神様に嘘を言っておる様なもんですから、自分の心にも引っ掛かる。だからそこん所をです、もうあれはちっと酒飲んで酒ぐせは悪いけれども、ね、素面の時に思うておる事がです、お役に立ちたい立ちたいという、一念をもっておるから、そこん所を、神様が大めに見て下さって、御用に使うて下さると言う事になれば、それはもうそのままに伏せておかげを下さると。癌の手術をしようと思うたけれども、もう体全体にはびこっとる、それをとりゃもう命取り。
返ってそれをじっとふさいでおいて、お役に立ちたいという一念をもっておれば、お役に御用に使うて下さる。御用に使うて頂きゃ神様はね、ただでは使わんというおかげが、約束されるのです。昔からよくお道の信者さんでいう言葉があります。例えば病気なんかして死ぬ。もうその時には御用済みと思うとこういう。もう神様の御用が済んだ時だと。だから、そういうものではなくて、ね、その御用に立ちたい。
お役に立ちたいという一念を燃やさせて頂くなら、もういうならばおかげを頂けるという一つの確信というものは、その人が本当にお役に立ちたいという人ならば、そういう場合がよくあります。神様が御用に使うて下さると、おぼしめしとりゃおかげは頂けれると確信しとる人があります。そのお役に立ちたいという一念をね、燃やさなければ。ただそう言う事ではなくて、ただ自分の癌を取り除いて貰いたいというだけではね、取り除いてやって、それが何にもならん。
お役に立たんならばです、やっぱり神様も助けてもせいが無い。このまま助けておきゃ役に立つ。又役に立たせて頂きたいと願うておる。だからおかげを下さると言った様な場合もありますと言う事。今日私共の中にそれこそ泥棒じゃ、乞食じゃと言われるよりもっとひどい、いうなら信心させて頂いておる者の、風上にもおけんと言った様なものがです、私共の行ないの中に又は心の中にある。そして自分でも改たまらにゃと思うとるけれども、改まりが出来ん。もうそれはあなたの癌になっておるのです。
確かにおかげの受けられないそれが癌です。けれどもそれでも、矢張り私の様な者でもお役に使うて頂きたい。お役に立ちたい立ちたいという一念を燃やすならばです、その癌を取り除くまではない、そのまま又ね癌を取り除かずに、ぬいつくろうて下さって、お役に使うて頂くと言う様な例があると言う事を今日は聞いて頂きました。案外多いです役に立つ。私共がねそれこそ改たまらにゃ通さん。磨かにゃ通さんと神様が言うて下さる改まりとか、磨くと言う事はです磨ければ磨けれる。
本気で改まろうと思えば、改まりが出来る様な事を、なおざりにしてはいけません。これは自分の心にもう巣食ってしもうとる、体全体にもう癌が回っておると思われる様な、私は改まりならば、もう改まらん。そのままでよいから、そのかわり信心の帯をしっかりせよと言う事を今日は、お役に立ちたい。という大きな念願を持たせてもろうて、お役に使うて頂くと言う事になればです、癌はそのままいうならば生きると言う事の上に、不自由のない様なおかげを下さって、御用に使うて下さると言う事で御座います。
どうぞ。